Charmed Life

物思いの忘備録として。

たまねぎとにんじん

 

 

 

 母の事をひと言話すと、人々は「いい人」と言う。もっとあけすけな方は「そんなお母さまを受け入れて、今度はあなたが理解して差しあげる事が出来ませんか?」と。

 


 父の事をひと言でも話すと、男性達はなぜか、同情してひとり肯く。DVに走るエリート男性というのは、ある種の人達の琴線に触れるらしい。

 因みに私は父の事を禄に知らない。職業すら高校生になってやっとはっきり聞いた程、何も知らない。

 恐らく、道ですれ違っても見分けられないし、もしかしたら面と向かって話しても、分からないだろう。

 

 

 両親はどちらも地雷の多い人だ。一歩でも半歩でもずれると爆発する。母はエンジンが掛かって周囲を巻き込んで止まらなくなる。父は癇癪が止まらなくなる。

 

 

 私の最も古い記憶は、家のリビングを走り回っていた事。おんぶ紐の中で母の背に凭れながら、この人は信用出来る人だろうかと穿って考えていた事。住んでいた団地の裏の芝生に転がって遊んでいた事。姉が幼稚園に行った後に、ひとりで居るのにも関わらず、姉が居る時と同様に喋りながらテレビ観るのをやめられなかった事。

 少し大きくなった頃の記憶は、クリスマスの時期に外から鈴の音がして、サンタさんが飛んでいる筈はないのになあ、と不思議に思った事。

 休日の度に着物を着せられ、車に乗った事。お教室に着くまでの一時間、高速道路を走る間ずっと「帯が崩れるから」と、座席に凭れてはいけなかった事。

 そして食卓で、「箸の持ち方が汚い」と言って食事中延々父に怒鳴られていた事。それを母が庇ってくれた事。

 休日はしょっちゅう、日が昇る前に起こされた事。母はもっと早く起きてお弁当を作っていた。そのバスケットと姉と一緒に車の後部座席にいた事。

 そして、夜、姉と並んで豆電球の付いた寝室の襖を少しだけ開け、明るい食卓をふたりでこっそり覗いていた事。そこから見える、冷蔵庫を背にしゃがみ込む母の姿。母に向かって、父が煮物の盛られた大鉢を投げ付けている光景。隣の姉から発せられる怒りと正義感の強い情調。その怒気が苦手だった事。

 出先で、母が乗り込む前に父が車を発車し、戸惑った母が走って追ってくるのをバックドアガラスから見ていた時の光景。

 


 初めてのお使いは姉のお使いに付いて行く形だったのだろうと思うが、覚えていない。

 初めてひとりでお使いに行かせて貰った時の事は良く覚えている。団地の端の薬局だった。母には眼帯が必要だったが、姉が居なかったのだと思う。母自身は買いに行けなかった。短い道を小走りで買いに行った。初めてひとりでお使いに出して貰ったという、成長への高揚感、よろこべる状況ではないという理性、深刻な状況にも関わらず高揚出来る自分自身への、懐疑と懸念。

 

 

 痣のない母の顔を思い出せない。もしかしたら見た事が無いのかも知れない。母が逃げ出し、別居した後も、沢山の大きな痣はしばらく青々と残っていた。そして沢山の大きな茶色い染みとなり、母の顔に残り続けた。

 暴力がいつ始まったのか知らないし、そもそも母が同意の上で私を孕ったのかすら知らない。

 

 

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 天気の良いある日の昼間、母がゴミ袋に洋服や身の回りの物をパンパンに詰め、それを車に積んで父の勤め先の住宅団地を出た。母の主婦仲間が協力してくれていた。初夏か夏休みだったと思うが、はっきりとは記憶にない。

 団地の駐車場で、母は車の名義を自分にして本当に良かった、と話していた。車を買い換えた際に名義も母に変わったのだそう。いつだったか、前の車は父の名義だったので、今度は母の名義になる順番、という話をしていたのをぼんやりと覚えている。車を買った時だったと思う。

 


 家を出るのに不安は無かった。母が居れば大丈夫なのだから。私は幼稚園児で、今も昔も頭の良い方ではないが、これが「よいこと」だと分かった。

 覚えている限り、姉も非協力的ではなかったと思うが、仲の良い友人と別れることにとても憤っていた。

 


 この時までは、全面的に母に協力する心算でいた。今思えば、苦労をまるで知らなかったからだった。そして苦労を知らずにする決意など、何の実行力もないのだった。

 事実、私の協力姿勢は一日と続かなかった。

 伯母の家で、駄々を捏ね、母に玄関まで引きずられた。

 


 父と同じように、母が朝食に作ってくれたオムレツを投げた。ケチャップでお気に入りの座布団を汚し、それは取れなかった。母が気持ちを奮って忙しい中作ってくれたものだった。だからそれはご馳走様だった。絶対に投げてはいけないものなのは分かっていたが、自分の悲しみと母の料理が天秤に掛かっていた。母の料理を投げたかったわけではなかったが、自分の悲しみが捨てることも静かに胸にしまっておくことも出来なかった。

 


 その頃の母の手はいつも人参と玉葱の匂いがしていた。細切りの人参と玉葱のお味噌汁をよく作ってくれていた。風邪の時は、人参も玉葱も微塵切りの卵おじや。私はどちらも大好きだった。

 母はある日、白眼を向いて倒れた。大事はなかったが、その時に人が気を失って倒れるのを初めて見た。

 


 記憶にある限り、口を閉じる事が出来ない子供だった。特に姉を罵倒し始めると止まらなかった。口汚い大人が身の周りにあまり居なかったことを思うに、多分父のような口のきき方をしていたのではないだろうか。

 記憶がある限り小さい頃から、自分が差別者であり、常に加害者であると知っていた。知っていれば加害者である事を止められるという事は無い。

 

 

 小学校の終業式だか始業式だかでは、ホームルームの途中で呼び出され、駐車場に見知らぬ車と見知らぬ運転手が待っていた。どこに行くか、誰も口にしない。腹が立って泣きじゃくった。教師は呆れ返っていた。結局乗るしかなかった。

 誘拐されると勘違いした訳ではないが、見知らぬ車に乗って連れて行かれなければならないという時に、大人しく受け入れるのを当たり前に求められる事に理不尽を感じた。腹が立って仕方なかった。せめて顔見知りをひとり乗せてこいよ、と、今でも思う。

 怒っている場合じゃないという危機感を感じる事は、とっくに出来なくなっていた。何年もそんな事を繰り返し続けていて、唯の日常になっていた。それに結局、逃げ続けて何になる訳でもなかったからだ。

 当然ながら母と姉は未だ父を恐れていたが、周囲の人たちは冷静だった。もう既に、父が母に手を出せる状況ではないと見ていたのではないかと思う。心理的ストレスは消えなくとも、肉体的、社会的に支配する事はもう出来無いと。

 毎回毎回、母のヒステリーと父の奇襲に対応させられる教師達はいい加減、だれていた。周囲も私もいつ迄もこんな事をしていても何も解決せず、何も進展しないと感じていた気がする。

 

 

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 見知らぬ車に乗る羽目になるよりずっと小さい頃、夕飯の食材を買っている母を、姉と車の中で待った。冬だったが、風邪をひかないようにしっかりと身支度を調えて貰っていた身には、密室の暖房は暑すぎた。母が帰って来ないかも知れないという不安。時間が経つのが遅過ぎると感じた。車のカセットデッキの上に付いているデジタル時計を何度も見ていた。

 だが、その時も、今となっても母が悪いとは全く思わない。母は一人になりたかったのだろう。それは気紛れや浅慮ではなく、耐えがたい渇望だっただろうと想像する。

 

 

 自力で行動が難しい者、出来ない者を車に乗せたまま離れることを肯定する気はない。

 だが、私の場合に限って言えば、車の中で母を待っている時、いつだって自力で車から離れて母の元へ行けたことは、はっきり書いておく。

 実際、待ち切れずに、姉が止めるのを聞かず、鍵を持たないで車を出て母を急かし、母の相談相手にJAFさんを呼んで貰う失態をしでかした事もある。

 悪いのは、母ではない。

 悪いのは、親になりきれず、支配者にしかなりたがらなかった父だ。悪いのは、現実の出来事に対応し切れていない、未熟な社会構造なのだから。

 


 以前、バーで居合わせた人が、その人の知人夫妻について言った。

「文句ばかりで行動しない。何で別れないのか、さっさと別れたら済む」と。

 私はその人に「心を寄せて生活を共にしていた人から離れるのは簡単ではない」という旨の事を言った。私はその人が本気で簡単に別れられると思いこんでいたらしい事にやや驚いた。どうしたらそんな風に思えるのか。

 

 

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 先日、出先で父に似た風貌の男性を見掛けた。年代も同じ位で、そこは父が居てもおかしくない場所であった。

 その人を見た帰り道、命や生活を握られる事に恐怖があったと、初めて気付いた。それは今迄、麻痺していただけだった。

 これ迄、その恐怖を感じずに済んでいたのが、誰のお陰だったかよく分かっているつもりでいた。だか、実感を伴って理解したのは初めての事だった。

 今も、まるで分かっていないのかも知れない。

 

 

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