Charmed Life

物思いの忘備録として。

近況に思う事。

 

 心身共に電池が切れて早一年。

 身の周りを改めようにも、痩せた土壌に植物を植えても枯れてゆくように何も育つ事がない。

 

 自分が持って生まれたものや環境から逃れる事だけに必死になり、夢想に生き、滑稽で無理な背伸びばかりして来た。

 この頃は手にしたものや手放すべきものを身の丈に合わせて整理し、身に付けるべき現実のものの為に計画を立てる。遅々とではあるけれどささやかな事をする。

 持って生まれた自分自身と共に生きているのか闘っているのかもよく分からない。

 ですが、恐らくは今の状態は子供の頃に憧れ、飢え、欲したものの入り口なのでしょう。望みに向き合うのは恐ろしいものですけれど。

 

 これ迄、自分にとっては愚かである事は生きる術であったように思う。とにかく遠くへ辿り着く為の。

 遠く離れた何もない場所で自分を見つめ、外の世界を見つめ、これまで縁の無かった堅実なものを積み上げられれば良い。不可能でも今は試みたい。

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎ 

 

 

 

 

たまねぎとにんじん

 

 

 

 母の事をひと言話すと、人々は「いい人」と言う。もっとあけすけな方は「そんなお母さまを受け入れて、今度はあなたが理解して差しあげる事が出来ませんか?」と。

 


 父の事をひと言でも話すと、男性達はなぜか、同情してひとり肯く。DVに走るエリート男性というのは、ある種の人達の琴線に触れるらしい。

 因みに私は父の事を禄に知らない。職業すら高校生になってやっとはっきり聞いた程、何も知らない。

 恐らく、道ですれ違っても見分けられないし、もしかしたら面と向かって話しても、分からないだろう。

 

 

 両親はどちらも地雷の多い人だ。一歩でも半歩でもずれると爆発する。母はエンジンが掛かって周囲を巻き込んで止まらなくなる。父は癇癪が止まらなくなる。

 

 

 私の最も古い記憶は、家のリビングを走り回っていた事。おんぶ紐の中で母の背に凭れながら、この人は信用出来る人だろうかと穿って考えていた事。住んでいた団地の裏の芝生に転がって遊んでいた事。姉が幼稚園に行った後に、ひとりで居るのにも関わらず、姉が居る時と同様に喋りながらテレビ観るのをやめられなかった事。

 少し大きくなった頃の記憶は、クリスマスの時期に外から鈴の音がして、サンタさんが飛んでいる筈はないのになあ、と不思議に思った事。

 休日の度に着物を着せられ、車に乗った事。お教室に着くまでの一時間、高速道路を走る間ずっと「帯が崩れるから」と、座席に凭れてはいけなかった事。

 そして食卓で、「箸の持ち方が汚い」と言って食事中延々父に怒鳴られていた事。それを母が庇ってくれた事。

 休日はしょっちゅう、日が昇る前に起こされた事。母はもっと早く起きてお弁当を作っていた。そのバスケットと姉と一緒に車の後部座席にいた事。

 そして、夜、姉と並んで豆電球の付いた寝室の襖を少しだけ開け、明るい食卓をふたりでこっそり覗いていた事。そこから見える、冷蔵庫を背にしゃがみ込む母の姿。母に向かって、父が煮物の盛られた大鉢を投げ付けている光景。隣の姉から発せられる怒りと正義感の強い情調。その怒気が苦手だった事。

 出先で、母が乗り込む前に父が車を発車し、戸惑った母が走って追ってくるのをバックドアガラスから見ていた時の光景。

 


 初めてのお使いは姉のお使いに付いて行く形だったのだろうと思うが、覚えていない。

 初めてひとりでお使いに行かせて貰った時の事は良く覚えている。団地の端の薬局だった。母には眼帯が必要だったが、姉が居なかったのだと思う。母自身は買いに行けなかった。短い道を小走りで買いに行った。初めてひとりでお使いに出して貰ったという、成長への高揚感、よろこべる状況ではないという理性、深刻な状況にも関わらず高揚出来る自分自身への、懐疑と懸念。

 

 

 痣のない母の顔を思い出せない。もしかしたら見た事が無いのかも知れない。母が逃げ出し、別居した後も、沢山の大きな痣はしばらく青々と残っていた。そして沢山の大きな茶色い染みとなり、母の顔に残り続けた。

 暴力がいつ始まったのか知らないし、そもそも母が同意の上で私を孕ったのかすら知らない。

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎ 

 

 

 天気の良いある日の昼間、母がゴミ袋に洋服や身の回りの物をパンパンに詰め、それを車に積んで父の勤め先の住宅団地を出た。母の主婦仲間が協力してくれていた。初夏か夏休みだったと思うが、はっきりとは記憶にない。

 団地の駐車場で、母は車の名義を自分にして本当に良かった、と話していた。車を買い換えた際に名義も母に変わったのだそう。いつだったか、前の車は父の名義だったので、今度は母の名義になる順番、という話をしていたのをぼんやりと覚えている。車を買った時だったと思う。

 


 家を出るのに不安は無かった。母が居れば大丈夫なのだから。私は幼稚園児で、今も昔も頭の良い方ではないが、これが「よいこと」だと分かった。

 覚えている限り、姉も非協力的ではなかったと思うが、仲の良い友人と別れることにとても憤っていた。

 


 この時までは、全面的に母に協力する心算でいた。今思えば、苦労をまるで知らなかったからだった。そして苦労を知らずにする決意など、何の実行力もないのだった。

 事実、私の協力姿勢は一日と続かなかった。

 伯母の家で、駄々を捏ね、母に玄関まで引きずられた。

 


 父と同じように、母が朝食に作ってくれたオムレツを投げた。ケチャップでお気に入りの座布団を汚し、それは取れなかった。母が気持ちを奮って忙しい中作ってくれたものだった。だからそれはご馳走様だった。絶対に投げてはいけないものなのは分かっていたが、自分の悲しみと母の料理が天秤に掛かっていた。母の料理を投げたかったわけではなかったが、自分の悲しみが捨てることも静かに胸にしまっておくことも出来なかった。

 


 その頃の母の手はいつも人参と玉葱の匂いがしていた。細切りの人参と玉葱のお味噌汁をよく作ってくれていた。風邪の時は、人参も玉葱も微塵切りの卵おじや。私はどちらも大好きだった。

 母はある日、白眼を向いて倒れた。大事はなかったが、その時に人が気を失って倒れるのを初めて見た。

 


 記憶にある限り、口を閉じる事が出来ない子供だった。特に姉を罵倒し始めると止まらなかった。口汚い大人が身の周りにあまり居なかったことを思うに、多分父のような口のきき方をしていたのではないだろうか。

 記憶がある限り小さい頃から、自分が差別者であり、常に加害者であると知っていた。知っていれば加害者である事を止められるという事は無い。

 

 

 小学校の終業式だか始業式だかでは、ホームルームの途中で呼び出され、駐車場に見知らぬ車と見知らぬ運転手が待っていた。どこに行くか、誰も口にしない。腹が立って泣きじゃくった。教師は呆れ返っていた。結局乗るしかなかった。

 誘拐されると勘違いした訳ではないが、見知らぬ車に乗って連れて行かれなければならないという時に、大人しく受け入れるのを当たり前に求められる事に理不尽を感じた。腹が立って仕方なかった。せめて顔見知りをひとり乗せてこいよ、と、今でも思う。

 怒っている場合じゃないという危機感を感じる事は、とっくに出来なくなっていた。何年もそんな事を繰り返し続けていて、唯の日常になっていた。それに結局、逃げ続けて何になる訳でもなかったからだ。

 当然ながら母と姉は未だ父を恐れていたが、周囲の人たちは冷静だった。もう既に、父が母に手を出せる状況ではないと見ていたのではないかと思う。心理的ストレスは消えなくとも、肉体的、社会的に支配する事はもう出来無いと。

 毎回毎回、母のヒステリーと父の奇襲に対応させられる教師達はいい加減、だれていた。周囲も私もいつ迄もこんな事をしていても何も解決せず、何も進展しないと感じていた気がする。

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎

 


 見知らぬ車に乗る羽目になるよりずっと小さい頃、夕飯の食材を買っている母を、姉と車の中で待った。冬だったが、風邪をひかないようにしっかりと身支度を調えて貰っていた身には、密室の暖房は暑すぎた。母が帰って来ないかも知れないという不安。時間が経つのが遅過ぎると感じた。車のカセットデッキの上に付いているデジタル時計を何度も見ていた。

 だが、その時も、今となっても母が悪いとは全く思わない。母は一人になりたかったのだろう。それは気紛れや浅慮ではなく、耐えがたい渇望だっただろうと想像する。

 

 

 自力で行動が難しい者、出来ない者を車に乗せたまま離れることを肯定する気はない。

 だが、私の場合に限って言えば、車の中で母を待っている時、いつだって自力で車から離れて母の元へ行けたことは、はっきり書いておく。

 実際、待ち切れずに、姉が止めるのを聞かず、鍵を持たないで車を出て母を急かし、母の相談相手にJAFさんを呼んで貰う失態をしでかした事もある。

 悪いのは、母ではない。

 悪いのは、親になりきれず、支配者にしかなりたがらなかった父だ。悪いのは、現実の出来事に対応し切れていない、未熟な社会構造なのだから。

 


 以前、バーで居合わせた人が、その人の知人夫妻について言った。

「文句ばかりで行動しない。何で別れないのか、さっさと別れたら済む」と。

 私はその人に「心を寄せて生活を共にしていた人から離れるのは簡単ではない」という旨の事を言った。私はその人が本気で簡単に別れられると思いこんでいたらしい事にやや驚いた。どうしたらそんな風に思えるのか。

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎

 


 先日、出先で父に似た風貌の男性を見掛けた。年代も同じ位で、そこは父が居てもおかしくない場所であった。

 その人を見た帰り道、命や生活を握られる事に恐怖があったと、初めて気付いた。それは今迄、麻痺していただけだった。

 これ迄、その恐怖を感じずに済んでいたのが、誰のお陰だったかよく分かっているつもりでいた。だか、実感を伴って理解したのは初めての事だった。

 今も、まるで分かっていないのかも知れない。

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎

 

 

 

 

 

 

 

苦労とは何でしょうか

 


 療育なんて誰もしてくれない環境で育っている。

 衣食住以外のケアなどもしてくれる人は碌に居なかったけれど、誰かが同じ苦労をするべきなど全く思わない。‬

 ‪一時、二言目には「私達の頃は〜」とお説教や愚痴や、自慢話の尽きない小母さま方と働いていた。‬

 そんな話を一日中聞かされていた当時は、まぁ、あの年代の方々は今も昔も過酷よね、家庭を持つのも子供が居るのも想像を絶する大変さだろうから、口が閉じれないくらいは仕方ないのだろう、と思っていた。

 ですが、近頃は小母さま方の言動を、何もかも大目に見なくても良い気がし始めている。

 

 

 

‪ そういう方の話を聞くと、正直、相当手もお金も掛けて育てて貰っている事が多い。‬

 ご‪本人は大変でしたのでしょうが、はっきり申し上げて、生きるのが大変で苦しいのは当たり前ですし。実のある事を身につけて来たなら尚更でしょう。‬

 実際、‪今なら虐待に数えられる話も沢山ある。当たり前だけれど色々な事が出来る人程、色々な苦労が増えて大変だし忙しい。無能でいる苦労と有能でいる苦労は全く別のものだ。

 どちらがより楽かは本人の人生との付き合い方次第であって、無能で何もしないから人生楽だとか、何でも出来るから人生楽に渡って行けるということは無い。

 

 

 

 私は小母さま方と同じ環境では生き抜けない。

 思春期までは人から教育を受ける事に耐えられなかった。今は距離の取り方を学んだけれど、小母さま達と同じ、一方的な教育から逃れられない環境で育ったら正気を失っていたかもしれない。

 でも、一方でこうも思う。あなたは私が甘やかされていると思い込んでいるけれど、私と同じ状況で本当に生き抜けますか、と。

 あなたのように贅沢な教育はして貰えなかったですし、お金の面でも、精神的にも条件が悪かった。

 自力で教育を受ける力を養う為に今でも一人で亀の歩みを続けている。

 けれど、スキルはあなたより低くても、あなたと同じ場所に辿り着いている。それが本当に出来ますか、と。

 助けてくれた人なんて両手で足りるけれど、腐る心身と頭に鞭を打って生きて来た。

それが本当に出来ますか、と。

 それは、あなたにとって本当に甘えた人生ですか、と。

 

 

 

 ‪真っ当な努力を教えて貰って、真っ当な努力の結果が誰にも奪われない環境の中で生かして貰って。

 側から見ればそれは幸運な事にも見えるのだが、三つ子の魂百までという事だろうか。

 機会に恵まれた彼女達の人生にも、赤の他人を鬱憤のごみ箱代わりにするような時間が必要なのだ。

 

 

 いままでの自分の環境にもお世話になった人にも感謝している。別に聖人の振りをしたい訳ではないが、環境が違えば得られなかった物が沢山思い当たるからだ。

 何も与えて貰えず、何を得ようとしても阻まれる事がどれだけ怖く、飢えることか実体験として知ってるから。

 


 とはいえ、私もこうして鬱憤を吐き出す時間が必要なのだ。鬱憤とは人の眼を必要とするらしい。

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎ 

 

 

 

 

 

ロリータと蝶 (1/3)

 

 

 ここ数年、構って貰っていた人が蝶や蛾に執心している。その人はいわゆるパラフィリアを抱えている人で、ややロリータ・コンプレックスの傾向がある人でもあった。

 顔見知りになり月日が経つにつれて、蝶も蛾もその人に直結する生き物、或いは死物になってしまった。

 そしてその人の身近な人々の中には青や水色に尋常でない執着を持っている人たちが居た。

 青もまた、その人の周囲を思い起こすものになってしまった。

 

 

 その人との関係が変化を迎えたので、思う事、思い出す事を書き出して、個人的な心境の整理を試みる事にした。

 閉鎖的な関係の中で、気付かない間に「自分で分かっているからそれで良い」と思い続けられない状況に嵌っていた。なので、誰が読む訳でも無くとも少し外に出しておこうと思う。

 

 

 ロリータと蝶に纏わる人として、その人以外に連想するのは作家のナボコフだった。

 その人が依存と呼ぶものを振り払うにあたって、途中で放り出していた小説「ロリータ」を読み直すのも、一つ気持ちの整理になるのではないかと思った。凝り固まった自分の主張から離れて、関連する様で実際には関係無いものに触れるのは、心の整理の一歩になるのでは無いだろうか。

 願わくば、ロリータも蝶も、その人ではなくナボコフを連想するものに変化すれば尚のこと良い。

 


 以下の長文は書評では無く、唯の個人的な物思いの吐露に過ぎない。

 

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎

 

 

 

 ナボコフの有名な小説「ロリータ」はロリータ・コンプレックス、通称ロリコンの語源になった。少女への性愛に苦しむ中年男性を書いた作品ではあるものの、ナボコフ自身は少女への愛に憑かれてはいなかったそう。小説「ロリータ」も取材を共にした同年代の愛妻に捧げられている。そして、ナボコフは蝶と蛾の研究も行っていた。

 

 

 

f:id:S-Nyx:20200726210801j:image

「ロリータ」新潮文庫

著: ウラジーミル・ナボコフ

訳: 若島 正

 


 ハンバート・ハンバートは、父の美しいホテルで過ごした幸福な少年時代に出会った少女・アナベルに魅入られ、親しくなる。だが、望みを遂げられないまま彼女を亡くしてしまう。ハンバートは成長してもある種の少女達をニンフェットと称し、その影を追い求め続ける。

 中年になり、大学教授の職を得て下宿先を探す中で、ニンフェットの少女ドロレス (ロー) に出会いアナベルの影を見る。下宿人を経てローの継父となったハンバートが脚色を加えた手記という体で書かれた小説。

 で、ロリータというのはドロレスという女性名の愛称の一つ。

 

 十代前半の頃、ローが羨ましかった。家庭が好きではなかったので、元来の家庭の外に連れ出してくれる存在が居る事が羨ましかった。明確にロリータ願望があり、自覚もあった。

 ローはハンバートと居ても決して幸せではない。母親の元に居た時以上に拘束される。ハンバートはローを性的な夢想の捌け口にすると同時に、保護者にとって理想的な「かわいい十代の娘」の殻に押し込めようともしてくる。

 けれども、彼女は彼女で自身の夢を見ている。ローにとって不可避であったハンバートとの生活は踏み台にして、自分を危険に晒しても望むものに突き進むローの退廃と渇望を、十代の私は理解出来た。

 結局の所、ローもロリータ願望を持っていた。唯、相手はハンバートではなかった。

 

 

 大抵の人が愛するのは、理想像をある程度投影出来る少女ではないでしょうか。お人形や天使の様にきれいだとか、ハンバートの言うニンフェットだとか。

 私自身も少女幻想を持っている。揺らがない美点を持ち、暖かい場所で守られている何処か神々しい少女。薔薇色のニンフェットであるロリータの影から、青白くやつれたローが出て来る事のない、幸福な少女。

 


 ハンバート・ハンバートや少女幻想を持つ者はそれぞれのイデアを追い求めるが、子供の方には父性のイデアや庇護者・保護者のイデアがある。

 終盤、十七歳に成長したローはハンバートに「良い父親だった」と言う。性的に拘束して連れ回し、ローの体調や精神面を蔑ろにする一方、実際せこせことお世話をしてはいるのだ。

 

 

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎

 

 

 

 

 もう一作、思い浮かべる作品として、少女側からのロリータ願望とも言える物語も有る。

 映画版「ロリータ」を観たのと同時期に繰り返し読んでいた。

 

 

 

 

f:id:S-Nyx:20200726210811j:image
「九年目の魔法」創元推理文庫/創元ブックランド

著: ダイアナ・ウィン・ジョーンズ

訳: 浅羽 莢子

 


 一九歳の夏の終わり、ポーリィは読んでいる本に違和感を覚え、記憶が二重になっている事に気付く。忘れていた方の記憶を辿り、九年前のハロウィーンに迷い込んだお葬式で出会った、チェロ奏者リンさんの存在を思い出す。

 読書家の二人は仲良くなり、ごっこ遊びのように自分たちの分身を主人公に据えた英雄物語を空想し、書き進める。だが、その物語が現実と交わり始め……。

 邦訳は先ず文庫版、その後、上下巻に分けた児童向けのハードカバー版が出ている。

 


 こちらは中世スコットランドのバラッドを下敷きにしたファンタジー小説で、元々児童書として書かれている。ナボコフのロリータと同じく、家庭が機能不全に陥り、そのまま親元を離れるしかなくなる少女の物語。ポーリィの方は作中で親を亡くしはしないが、自己中心的な両親から拒絶されてしまう。決定的なネグレクトを受けた後もポーリィはリンさんと暮らす事はなく、父方の祖母の元に身を寄せる。

 「ロリータ」と大きく違う点として、ポーリィが子供の間はリンさんもポーリィもお互いに性的な視線を持っている描写はない。

 最後の方のやや色っぽい雰囲気が、性欲というよりプラトニックな愛情から来る関係性の色香に思えるのは、私の願望なのかもしれないが。

 また、リンさんと他の大人の女性の間にはそれらしき含みが有るのだが、児童書だけあってかなりやんわりとしている。十代半ばの頃に読んだ際は気付かなかった。

 


 理想的な父性を持つ人(というか、母性的な男性) 、理解し導いてくれる庇護者、そしてソウルメイトを一纏めにしたような存在との関係を少女の視点から書いている。

 「九年目の魔法」は、「ロリータ」に比べると遥かに希望が残る物語ではあるが、少女と成人男性の関係に於いて、お互いが相手に抱くファンタジーと苦い現実を書いているという点で両作は共通しているのではないだろうか。

 

 

 

 

 少女幻想からは離れるが、ポーリィと母親・アイビーの関係にも個人的に色々と思うものがある。歳を重ねる毎にポーリィの言い分にも、アイビーの身の上にも身につまされる部分が増える。

 近頃、折々思い出すのは以下の部分。

 

---------

 

「私はほんの少し、幸せが欲しかっただけなのに」アイビーはまた始めた。「この世界じゃ、自分から出てって手に入れるしかないのよ。幸せの方からやってきちゃくれない」

——(中略)——

「幸せは物じゃないよ。お茶なんかと違って、出てって手に入れるわけにはいかない。物事をどう感じるかだもの」

——(中略)——

「そもそもあたしが欲しいのは自分のささやかな取り分だけなのに。誰だってそれくらいの権利はあるんだから。もらうべきものを要求してるだけなのよ」

「もらうべきだなんて誰が言ったの?」ポーリィは腹が立ってきた。「そんな法律がどこにあるの?」

——(中略)——

「母さん、自分の欠点わかってる?守銭奴なのよ——幸せの守銭奴

 

(創元推理文庫版 381頁、382頁より)

---------


 物語終盤、忍耐の限界に達したポーリィとアイビーとの会話だ。

 ポーリィの言う事は最もだが、残酷な言葉でもある。

 

 

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎

 

 

 

「ロリータと蝶 (2/3) 」へ続きます。

 

 

 

 

 

拘束された命

 

 

 

 ブログ名の「Charmed Life」は、十代の頃に繰り返し読んだ児童書から取った。

 英国の作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズ氏の著作「魔女と暮らせば」(旧題「魔女集会通り26番地」)の原題であり、本書の物語を表す、様々な意味を含んだ掛け言葉になっている。

 そのまま訳すと、魔法に掛けられた人生や命。転じて不死身の意味もあるようである。

 言葉通り、命に魔法を掛けられ、人生を拘束された少年の物語が語られている。

 

 

f:id:S-Nyx:20200726221331j:image

 

 主人公のキャットにも、その姉のグウェンドリンにも共感しながら読んだが、よくよく考えればそれは少し不思議でもあった。家庭環境は良く無かったが、特に虐待や虐めを受けたという感覚もなく育った。決定的な不幸とは無縁というか、当時特に自覚がなかった。それからずっと、自分を拘束するものの心当たりが何も無く、原因に思い至らなかった。

 人目に明らかではなく、明確な根拠が炙り出せなくても、苦しみや困難は現実にあるものなのだと知った。

 

 私を拘束していたのは発達障害だったことが、二十代後半になってやっと判明した。

 書籍などで診断基準を読む限り、米国精神医学会の精神疾患診断分類書であるDSMの改定前や、世界保健機構の統計分類(ICD)での診断であればおそらくアスペルガー症候群に分類されたのではないだろうかと推測する。

 

そんな人間の物思いをつらつらと書いていきたいと思う。

 

 

♦︎   ♦︎   ♦︎